何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない話

何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない話
一度目の会計士受験に落ちてから地元の図書館に引きこもるようになった。

予備校で張り出される模試の順位や、受験生で密集した教室に響き渡る電卓の音にも嫌気がさした。他人との関わり合いが煩わしかった。

しかし、それを避けようとすればするほど実はそれに飢えるもので、結局ひとは他人との関わり合いを求めずにはいられないのかもしれない――。


地元図書館の自習室に朝一番で入ろうと決めて毎日早起きをしていたのだが、私より決まって先に机に向かうおじさんがいた。土日を問わず。

まだ余生を送るには早いだろうこのおじさん、毎日何をしているのだろうかと気になるようになった。

ある日トイレに行こうと席を立ったとき、おじさんの机の上のものが目に入った。それはデザイン画だった。おじさんはひたすら家のデザイン画を描いていたのだ。見ている限り、昼飯も食べてはいないようだった。

私も建築を少しかじった経験もあり、そのおじさんに興味をもった。


おじさんを毎日見かけるようになって3か月ぐらい、あれは夏の日だった。夏休みに入り自習室も高校生達で混み始めるようになった。

その日は午前中なにか予定でもあったのだろう、おじさんはめずらしく午後を過ぎて自習室に入ってきた。ちらちらと周りを見渡し歩き始めたかと思うと、私の使う二人掛け用の机の隣で立ち止まった。

「こちらの席、空いてますか」

その時にはおじさんに対する興味は最高潮に達していた。それを悟られないようにしながら、「どうぞ」とそっけないふりをして一言返した。

おじさんは画材の準備をしながらこちらを覗きこみ、「何の勉強をされてるんですか」と尋ねた。

「会計士の勉強をしてます」と答えると、おじさんは「それは立派だ」と一言つぶやき、いつものようにデザイン画を描き始めた。


それから毎朝顔を合わすたび、おじさんは私に声をかけるようになった。何日か経つと、おじさんの身の周りの話もしてくれるようになった。

実は早期退職をしたこと、それまでは近くの工場で働いていたこと、小さいころから絵を描くのが好きで本当はデザインの学校に行きたかったこと、家が貧しくそれを断念したこと、そして建築士になりたかったこと。

「今さらだけどね」と、デザイン画を描いている理由を控えめに話すその表情は反面、とても生き生きとしていた。

そんなおじさんとの関わり合いがいつしか楽しみになった。勉強漬けで乾ききった毎日に潤いを与えてくれる、私にとってはそんな存在だった。

必死に勉強もしたが、休憩時間は決まってふたりで話に花を咲かせ、その瞬間だけは笑顔が絶えることはなかった。

それから1ヶ月ほどして会計士試験本番を迎え、無事合格した。

その後就職も決まり、入社まで時間ができたので実家に帰省した際、ひさびさに図書館に足を向けることにした。おじさんに合格を報告しようと思ったのだ。


図書館の自習室を覗くと、そこにおじさんの姿はなかった。そのあと数日通ってみたが、やっぱりおじさんは姿を現さない。

警備員の人に聞いてみたが、おじさんはもう2か月くらい図書館には来ていないという。

合格を伝えたかった。おじさんの存在のおかげで合格することが出来たんだということを。


振り返って今でも思うのだ。きっとどこかで、おじさんは画を描き続けている。

生涯、自分の好きな画を描き続けるんだと思う。

本当はあったのかもしれない別の人生を追いかけるように――。