あの街の歯痒さとカレーの余韻

あの街の歯痒さとカレーの余韻
1度目の緊急事態宣言が発出されて1か月が経とうとしていた頃の話だ。

自宅や仕事場が新橋に近いこともあり、周辺にたくさんあるランチのお店を今日はどこに行こうかと悩んだり、夜になれば飲食街の居酒屋を飲み歩くことが大好きだった私には、当時の状況は致し方ないとは思いつつ、やっぱり正直寂しかったのは事実だ。

つい最近までも緊急事態宣言は続いていたが、その頃は飲食店などに対し国や都からの様々な補償が公表され始めたばかりで、私のお客さん含め当事者の方達からは「窓口が一本化されているわけではなく何をどうしたらいいのか分からない」との声も聞いた。

2020年5月の初旬だったか、行きつけのお店の前を通った際、やむを得ずお店をたたむという張り紙を目にしたときには、どうしようもない悲しみやら怒りやら、形容出来ない気持ちの行き場に困ったりもした。

私は知っていたのに。
あの時ひと声掛けていれば――。

「そうだ!ランチの時間や夜の一杯のひとときを提供してくれた飲食店に恩を返すときは今しかない!」

そう思い立ち、国の給付金や都の協力金のパンフレットを大量に打ち出し、「申請にお困りでしたら無料でお手伝いします」と書き込んだ私の名刺を左上にホチキス止めし、閑散とした新橋の飲食街を飛び込みで回ったのは、もうすっかり昔のことのように想う。

もちろん、忙しい時間帯にお邪魔しないことと感染症予防には細心の注意を払ったうえで。

さて、「自粛ポリス」などいう言葉も、後世への歴史の教訓としては忘れてはならないものだと思う。
こんなものが蔓延った背景には人間が行う他罰に伴う快楽があり、何かの記事で読んだことがあるが、これを「正義中毒」といい、一種の依存症状とのことだ。

人間はもともと社会性の強い生き物であり、自分たちの集団や価値観をおびやかすような「他人」を叩くことにより、種の保存を図るように出来ている。
和を乱す「他人」を叩く際には、神経伝達物質のひとつであるドーパミンが分泌され、快感を得、脳が興奮するように出来ている。

それを「正義」と呼び、過ちを犯した相手には何をしても許される、正義は我にあり、と。
ドーパミンがもたらす中毒症状は、アルコールやギャンブル依存と同等のものであり、これに一度ハマってしまうと、「正義」の名のもとに、常に罰する対象を追い求め続ける、と。

果たして本当にこれが「正義」と言えるのか。
そんなものは正義を掲げて行動する当事者が客観的に、冷静に自らを見つめるしかない。

ただ、少なくとも言えるのは、「自粛ポリス」なるものが営業中の飲食店に営業妨害の張り紙をしたり、他県から来る飲食店駐車場の車のナンバーを監視したりしていた当時の状況は常軌を逸していたとしか思えないということだ。

しかし、仕方がないのだ。
これは人間という生き物が持ち合わせている、しかも奇しくも快楽を伴う習性なのだ。
これを理解しないといけない。

しかし、しかしだ。
これを理解したところで、なんとなる?
自粛ポリスに対して、習性を逆手にとった反撃でも始める?

いや、違う。
それは習性として理解するだけでいい。
自分達が出来ることは自らの知識・経験をもとに、理性をもった「正義感」を発揮することなのだ。

だれかの粗探しをすることでもなく、非難や誹謗中傷でもなく、理性をもち合わせた「正義」の名のもとに行動を起こすことなのだ。

これは正義中毒とは違う、承認欲求のような人間特有の習性につながるような気もするが、それがどうした、少なくとも目の前で困っている飲食店のオーナーに迷惑をかける類のものではない。

そう思い立って、新橋の飲食店を飛び込みで回ったのがつい最近のことのように想う。そして、すっかり遠い昔のことのようにも想う――。


名刺をホチキス止めしたパンフレットを配った翌週だっただろうか、飲食店の一件から電話をもらい、そのカレー屋さんの場所も近かったので、急いでお店に向かい、国の給付金と都の協力金の申請をカウンターで一緒に終わらせた。

オーナーは正直制度のことは疎く、お店をたたむことも考えていたが、その2つの申請額が下りれば、1ヶ月は何とかやっていけるとのことだった。その間に融資の手続きを進めることが出来る、ありがとう、と。

帰り際、オーナーからの「ありがとう」の言葉と一緒に手渡されたキーマカレーのあの味は、私の税理士人生で一生涯忘れることはないだろう。